2017年1月7日
おんな城主・井伊直虎と相続

おんな城主・井伊直虎と相続

井伊家というと、幕末に幕府の大老を勤めた井伊直弼の名前で知られる家である。徳川家康に仕えた家臣では最大の所領を与えられた。35万石である。米1石を金1両とし、金1両が現代の10万円とすると、350億円の資産持ちだ。今回はその『井伊家』を支えた井伊直虎を見ていこう。

大老井伊直弼を出した『井伊家』を救ったおんな城主

幕府の重鎮井伊家も戦国時代は苦難の連続だった。跡目を継ぐはずの男子が次々と命を奪われ、存亡の危機に晒される。井伊家を存続させるため、やむなく当主の娘が男性の名前で跡目を相続し、その危機を乗り切ったのだ。

御家断絶の危機にあった井伊家を復活させ、35万石の大名にまで成長させる礎を築いた女性こそ、2017年の大河ドラマ『おんな城主直虎』のヒロイン井伊直虎である。

いいなづけに裏切られた直虎

江戸時代、井伊家は琵琶湖近くに聳え立つ彦根城の城主だったが、元々の出身は浜松だ。井伊谷と呼ばれた山間地帯を支配する領主だった。鎌倉時代より、静岡県の西半分にあたる遠江国の有力豪族として台頭する。居城は井伊谷城である。しかし、室町時代に入ると、静岡県の東半分にあたる駿河国を支配する今川家に服属し、その支配下に入る。

さて、当時の井伊家の所領はどれほどだったのか。 井伊家の身上は2万5000石といわれる。直虎は、現在の価値で25億円の資産を持つ領主、井伊直盛の娘として生まれたのだ。諸説あるが、天文3年(1534)の生まれと伝えられる。傍目には何不自由のない生活が約束されたはずだった。一族から年下の亀之丞を婿に迎えることも決まったが、やがて直虎の周りには暗雲が立ち込めはじめる。 天文13年(1544)に、いいなづけ亀之丞の父直満が、井伊家の主君である今川義元に討たれる。実は、井伊家内部には、直親が跡目を継ぐことに反対する動きがあったのだ。その讒言(ざんげん)により、謀反の疑いを掛けられた。危険を察知した亀之丞は、現在の長野県の伊那谷で、長い潜伏生活を余儀なくされる。その間、妻を迎えて子どもも生まれた。

相続者を失う井伊家の悲劇

いいなづけ亀之丞の無事を祈っていた直虎は、その事実を知り大きな衝撃を受ける。 天文23年(1554)、世をはかなんだ直虎は、家族や周囲の反対を押し切り出家したのだ。仏門に入り、次郎法師と名乗った。女性である以上、出家すれば尼となるが、尼では還俗することが難しいため、父直満は直虎を次郎法師という男性の名前で出家させたのである。 還俗とは、出家した者が俗世に戻ることだった。男子ならば還俗でき、家の跡目も相続できる。せめて親としては、娘の心が落ち着き、気持ちが変わったときに俗世に戻れるようにしておきたかったのだろう。引き続き、井伊谷城に住まわせた。

翌天弘治元年(1555)、11年ぶりに井伊谷へ帰ることができた亀之丞は、直盛のはからいで、一族の娘を妻に迎え、井伊家を継ぐことになった。名を直親と改める。直虎には還俗して直親の妻となる道が残されていたが、その道はついに選ばなかったのだ。

永禄3年(1560)、井伊家に再び暗雲が立ち込めはじめる。 桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた際、従軍していた父直盛も討死したため、井伊家の家督は直親が継いだ。 永禄4年(1561)には、直親に跡継ぎの虎松が生まれたが、家臣の間には直親を亡き者にしようとする動きが絶えなかった。そもそも、直親が井伊家を相続すること自体に反対だったのだろう。

永禄5年(1562)、讒言により謀反の疑いを掛けられた直親は、今川家に討たれる。ここで父直満と同じ運命を辿ったのだ。その後も、井伊家を相続する資格のある男性たちが、次々と命を落としていった。ついに、跡目を継ぐ資格があるのは、元いいなづけの忘れ形見である虎松だけになってしまった。

男性として井伊家の跡目を継いだ直虎

直虎は、次郎法師と名乗り井伊谷城に住んでいたが、永禄8年(1565)に還俗して、井伊直虎と名を改める。数え年で5歳の虎松が成長して、井伊家を相続できるまで、男性と称して井伊家を相続することを決意したのだ。

ここに、戦国武将井伊直虎が誕生する。

直虎は井伊谷城主として虎松を守り、今川家の圧力に対抗する。しかし、家臣の裏切りに遭い、永禄11年(1568年)には、井伊谷城を追われてしまう。所領も今川家に奪われた直虎は、虎松を連れて身を隠し、再起のときを待ったのだ。

桶狭間の戦いで今川義元が討たれてから、直虎の宿敵今川家にかつての勢いはなかった。よって、井伊家と同じく今川家に服従していた戦国武将が、その支配から離れて独立への道を歩みはじめる。その戦国武将こそ、愛知県の東半分にあたる三河を支配していた徳川家康なのである。愛知県の西半分にあたる、尾張を支配する信長と手を結び、今川家に反旗を翻したのだ。このとき、井伊家復活の日は目前に迫っていた。

いいなづけの忘れ形見を支える直虎

永禄11年(1568)、家康は今川家の支配下にあった遠江に攻め込んだ。このときを待っていた直虎は、甲冑を身に付け家康を出迎える。井伊家を裏切り、今川家に走っていった家臣は逃亡するが、家康の命により処刑され、井伊家獅子身中の虫は除かれた。

直虎は家康の力を借りることで井伊谷を取り戻し、城主として復活したのだ。 天正3年(1575)、15才になった虎松は、万千代と名乗り、直虎のはからいで、万千代は家康に拝謁し、家臣となった。

以後、万千代は、家康に従って各地に転戦して武功を重ねた。その間、直虎は城主として井伊谷を守っていたのだ。

万千代が跡目を相続する環境は整ったが、井伊家の家督を継いだのは、祐円こと直虎が死去した後である。養母の直虎に敬意を表したのだろう。 本能寺の変から2か月余りの天正10年(1582)8月26日、直虎は波乱の生涯を終える。法名を妙雲院殿月船祐圓大姉という。 その後、直政と名を改めた万千代が井伊家の家督を相続する。徳川四天王の一人井伊直政として家康の天下取りを支える武将に成長する日々がはじまるのである。

直虎は城主として井伊谷を守っていた

監修・文/安藤 優一郎 歴史家 文学博士(早稲田大学) 江戸をテーマとする執筆・講演活動を展開。 東京理科大学生涯学習センター、JR東日本大人の休日・ジパング倶楽部「趣味の会」、NHK文化センターなど生涯学習講座の講師  写真/龍潭寺ホームページ/龍潭寺百景より

 

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